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​水の庭

Prelude II

2.
田舎から大学に出て来た地方出身者の学生なんかには、東京の都会に出て来て、小学生の頃からまるで喪服や礼服のような制服と帽子、黒い革鞄を身に纏い、渋谷などという都会を集団で、電車に乗って登校している子供達をみて、驚いた人があるかもしれない(あるいは、そもそも中学受験や小学校受験という概念を知ってカルチャーショックを受けた人とか)。彼らはまるで学習院に通う皇族の子弟のようにも視えるが、まさにその集団が霞ヶ丘高校の生徒である。事実、直系の皇族は学習院に通うことが慣例として定まっているが、霞ヶ丘にもその種の生徒がいることは珍しくない。ただし、例えば、千鳥ヶ淵や有栖川の生徒が、上昇志向の強い中流や官僚、医者といった家系の子供が多いのに対して、カス高はもっとブルジョワ寄り、財閥系や、表舞台に出ることはあまりない、庶民にはそもそもその情報に接する機会もないような、名も無い、高級住宅街の大金持ちであることが多い。庶民は医者や官僚が“上級国民”だと思っているが、ブルジョワにとっては官僚や医者は単なるサラリーマンの端くれに過ぎない。それに、宝くじをあてにするような貧乏人は政治家をことあるごとに政治家を批難するが、世に出る政治家というは単なる木偶の坊に過ぎないのだ。本物の権力者にとっては、首相など、誰でもいい。もっと言えば、右翼か左翼かなんてどうでもいい。政治で、戦争で、ウクライナが勝とうが、ロシアが勝とうが、イスラエルが勝とうが、パレスチナが勝とうが、どうでもよい。政治とはそのようなところで動いているのではない。戦争とは起こることが大事なのであって、どの国が勝とうが負けようが問題ではない。
歴史を遡って言えば、第二次世界大戦で日本が勝とうが枢軸国が勝とうが、アメリカが勝とうが連合国が勝とうが、そういった「名も無い人々」にはどうでもよかった。戦後の今になってから明らかになることが色々あるが、例えば白洲次郎や吉田茂らの「ヨハンセングループ」の動きをみよ。白洲次郎は戦後になって偶々有名になっただけで、彼自身有名になる気は一切なかった。訳のわからない庶民が訳のわからないままに彼を今更持て囃しているだけで、彼にはそういったことはどうでもよいことだったに違いない。ほぼ百パーセントを占める庶民には戦争とは大事であり、東條英機がどうであったとか、あの時政治がああなっていればとか、海軍の名将がとか、軍部の疎かさがとか、色々と論議するのだが、そういったことはまるでカエルの談笑である。軍事や政治など「本当の人々」にはどうでもいいのである。また、表舞台に立つ人々はただの傀儡であることに注意せねばならない。ここに描いている者の大部分は、そんな「名も無き人々」の子弟である。そして名も無き世界の物語である。

公開日:2026年5月9日

Author

天羽 柊
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